このブログについて
このブログは,個人の主観に基づくものです.
解説系などに関しては,できるだけ納得感を大事にしていきたいと思っています. そのため,必ずしも正しいこととは言えないかもしれません.
コメント等は歓迎します.
以下はポエムみたいなものです.
納得感について
このブログで大事にしていきたい納得感について個人的に思うことを述べておきたいと思います.
私が思う納得感とは,腑に落ちるかどうかということです.
日常においても,著名な人がそう言ってるからであるとか,なぜかわからないけどみんなやってるということで,自分は納得してないけど正しいと思い込んでしまうことはあると思います.学生であれば,教科書に書いてあることは,全て正しいということもあると思います. しかし,悪意があろうがなかろうが人は誰でも間違えることがあります.
そのため,著名な人の言うこと,教科書に書いてあることであっても疑ってかかるに越したことはありません.
理解とは
ここで,話題を変えてみます. あなたは学生時代の教科書(なんでも良い)の内容を覚えていますか?
まあ余程の天才でない限り覚えていないと思います.私ももちろん覚えていません. ここで,あえて覚えていると書いたのは,理解していることと対比させたかったからです.
私は普段の生活で,理解という言葉を慎重に使います. みなさんも学生時代のテストでは,
過去問の式を覚えて,数値を当てはめて公式芸に持ち込む
歴史は暗記
といったことで乗り切ることができたということもあったかもしれません.しかし,それは理解していると言えるのでしょうか? 必ずしもそうは言えないと思います.
「理解」とは デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E8%A7%A3-148409 では
物事の道理や筋道が正しくわかること
が1つの意味であると述べられています.
私は,この「理解」に関して以下の例を考えました(「理解」ではなく「理解していない」になっています). 理解していないとは,入力と出力があったとき,入力と出力の間がブラックボックスであること,つまり,入力と出力の説明ができないことであり,理解しているとはその逆である.
一例として,中国語の部屋 ja.wikipedia.org という思考問題があります.
これは,中国語を理解していない人とマニュアルを部屋に閉じ込めて,入力された文章に対する応答をマニュアルに従って出力(返す)というもので,マニュアルが完璧であれば,中の人は中国語を理解しているようにみえるという問題です.
考え方によって,中の人が中国語を理解しているかしていないか分かれるところらしいのですが,個人的な意見としては現実で考えるとこれは理解しているとは言えないでしょう. まあ,そもそも現実世界では完璧なマニュアルを用意することはできないでしょう.
かなり脱線しましたが,理工系的に言えば「理解する」とは,入力xに対する出力yを実現する,関数f(x)を求めることになると思います. つまり,
- 理解している:真の関数f(x)が求められた
- 理解しようとした:入出力の関係から自分が考えたモデルと誤差が小さくなるよう最適化した関数(関数近似)
- 丸暗記:単なる入出力のルックアップテーブルとして保持(入出力の対応関係あるときのみ,入力に対して所望の出力となる) となると思います.
このとき,真の関数がy=2xだったとして,自分が考えたモデルをy=axとしたとき,aが2であれば真の関数と一致し,どんな入力でも2つの関数の間に誤差はなくなります. 対して,自分が考えたモデルがy=ax2であれば,aをどんなに調整しても一致することはありません(まあ,交点はあり,交点に気を取られて関数が近似できたとしてしまうのは,一歩及ばずというところです).
このように考えると,「物事を理解しているということが」が代数学(と言っていいかわからないですが)のアナロジーとして表現できたことになります. 個人的には結構納得できます.
かなり回りくどくなりましたが,このブログではこのような納得感を通じて,(必ずしも正しいことは保証できませんが)物事を理解しようとしているということを示していきたいと思います.
具体的には納得感を得るために,
- アナロジーを考えたり
- 論理的に組み立てたり
- 複数の文献などを通して視点を変えたり
していきたいと思います.